あの素晴らしきクラシックカメラをもう一度「ペンタックス67」

あの素晴らしきクラシックカメラをもう一度「ペンタックス67」

生き馬の目を抜くカメラ市場。各社こぞって軽量小型化を進め、それでいてフルサイズ、高感度・低ノイズ、高速シャッターに手ブレ補正など、技術革新に抜かりはない。一方でオールドレンズやクラシックカメラを愛でている人たちも一定層おり、InstagramなどのSNSでは新旧さまざまなカメラのオーナーたちが「いいね」で繋がっているのだからおもしろい。

 

最近ではカメラ好きな若い人たちの間でも、オールドレンズやクラシックカメラが持つ、独特の雰囲気が好まれている。淡く、ふんわりと優しい印象の仕上がりは、フィルターや画像加工では表現しきれない味がある。それゆえ、ひと昔前のカメラを中古で手にする人たちが増えているという。

横浜元町にて(ペンタックス67で撮影)

まるで鈍器のような中判カメラ「バケペン」

昭和50年代男の筆者にとって、青春時代のカメラと言えば「写ルンです」。修学旅行には写ルンですを2つ3つ持っていき、友人や街並みなど、何も考えずにパシャパシャ撮影していた。ひとつ100gにも満たない写ルンですは持ち運びも容易で、今でいうスマホのカメラみたいにお手軽な存在だった。

 

そんな写ルンです全盛時に、写真家やプロカメラマンたちの間で使われていたのが「PENTAX(以下ペンタックス)67」、通称「バケペン」。まるでバケモノのように大きなペンタックスだからと、バケペンと呼ばれるようになった。

デジカメしか知らない娘(当時4歳)は、カメラの背面に液晶モニターがないことを不思議がる。

ペンタックス67は、1967年に初代「ASAHI PENTAX 6×7」が発売され、その後シリーズを重ねて1998年の「PENTAX 67II」を最後に生産が終了した。レンズ込みで2kgを超える重さと角張ったルックスはまるで鈍器のよう。ウッドハンドルがちょうどいい具合に振りかぶれる位置にある。

 

昔のカメラマンはヘビー級なペンタックス67を手で持って、ブレることなく撮影していたのだから恐れ入る。

手持ちで撮る時は息を殺して、呼吸をせず、死んだようにシャッターを押す。ガシャンと響くシャッター音に被写体もビビる。

このカメラは67判と呼ばれる中判カメラで、35mmのフィルムサイズの約4.4倍の大きさにあたる。使用するブローニーフィルムは12枚撮りで1000円ほど。現像代で約750円、プリントで12枚1000円ぐらいだとしたら、1枚写真にするのに220円ほどかかるのだから、中途半端な気持ちではシャッターが押せない。これがまた良い。

 

写真一枚の単価にビビればビビるほど、シャッターチャンスを大いに逃すが、撮影に慣れてくると被写体に「動かないで!」と、オーダーするようになる。ブレをできる限り減らすためには自分はもとより、撮られる側にも緊張感が必要だ。その結果、だいたい記念写真みたいな仕上がりになる。

子供たちをアイスで釣って、できるだけ動かないように言い聞かせる。もちろん三脚で固定して、失敗しないよう最新の注意を払って撮影した。

経費も時間もかかる、でもそれが良い

フィルムカメラは撮ってすぐに見ることができない。ラボ屋さん(現像屋さん)に持って行って、プリントの種類を指定。なかには仕上げのトーンなどの相談にのってくれるお店もあり、それだけ出来上がりのワクワク感はひとしお。これはデジカメでは味わえない(失敗ばかりの凹みようも、デジカメでは体験できないツラさだ)。

 

なお、デジカメ慣れしていると、ペンタックス67のシャッターを押す度に、あるはずがない背面モニターを確認してしまって苦笑いする。

完全にブレてる。明るさが足りない室内撮りはとても難しい(左)。観光名所を撮ったはずだが、なんだろうこれ…。写ルンですで撮ったものと大差ない(右)。2枚で440円ほどの出費、勉強代なり。
ファインダーにマグニファイヤー(拡大鏡)を付けてみる。ピント合わせがより丁寧に行えるので、導入後の失敗が少なくなった。もちろん被写体は直立不動だ。

ハッシュタグ「#カメラ好きと繋がりたい」

お店によっては現像した写真をCD-Rに入れてデータ化してくれるサービスもある。フィルムで撮った写真をインスタにアップして、ハッシュタグ「#カメラ好きと繋がりたい」を添えれば、同じ趣味や世界観をもった人たちと「いいね」でつながることができるのだから、やらない手はない。また、SNSだと同じカメラを持っている人を見つけることも簡単なので、「どんな感じに撮っているのかな」と、作例をみるだけで勉強になる。

 

カメラは高性能で便利な最新機種も良いけど、ちょっと古くて扱いが難しいクラシックカメラも楽しいもの。予算と時間と根気が許せば、もっともっと撮影して使いこなせるようになりたい。たまに、というよりも頻繁に「もう使うの止めた!」と、自分の腕の無さに諦めるのだが、決まってまた触りたくなる。もしかしたらスリスリ触れているだけで満足なのかもしれない。



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